2019年(R1)6月17日(月)2名

元箱根~箱根神社~お玉ヶ池~鷹巣山~千条ノ滝~小涌谷のGPS軌跡

元箱根~箱根神社~お玉ヶ池~鷹巣山~千条ノ滝~小涌谷のGPS軌跡

その昔、箱根の石仏群が造られたのが鎌倉時代後期の1293年(永仁元年)から1311年にかけてである。昔の旅人が箱根越えをした時、芦ノ湖畔からお玉ヶ池や石仏群、精進池などを見て湯坂路を歩いたに違いない。これらは湯坂路などのハイキングコースから外れており、しかも交通量の多い国道1号線沿いにある。そのため、興味はあったが中々訪れることが出来なかった。今回は箱根神社からお玉ヶ池、湯坂路、鷹巣山をつないで歩いてみた。

元箱根からの芦ノ湖、前方の山は箱根外輪山

元箱根からの芦ノ湖、前方の山は箱根外輪山

元箱根バス停からバス通りに出て左手に数分歩くと芦ノ湖畔である。遊覧船乗場があり遊覧船が出ていくところだった。芦ノ湖前方の右岸には箱根神社の赤い「平和の鳥居」が見えている。そこを目指して湖畔を歩いていく。少し歩くと湖畔の遊歩道は狭くなり車道にあがる。そこに箱根神社の参道入口があり、「国幣小社 箱根神社」の石碑が立てられていた。鳥居をくぐり歩いていく。直ぐに手水舎が出てくる。

ここから右手に89段(標高差約20m)の長い階段がある。語呂合わせで89(やく:厄)を落とすことから89段の階段にしたようだ。。箱根神社は古くから「関東総鎮守箱根大権現」とあがめられてきた。運開きや厄落としの目的で来られる参拝客が多い神社だそうだ。ただ今日の参拝客(観光客)は中国人が多いようだ。中国語が飛び交い自撮り棒を持つ人がやたらと目に付く。

箱根神社本殿

箱根神社本殿

箱根神社の由来

箱根山周辺では数十万年前から火山活動が始まり、最終的に神山が形成されたのが三千年ほど前だとされている。古くから箱根山では山岳信仰が盛んであった。神山は箱根山の最高峰であり神の山として崇められてきたことからこの名がついたとされている。「箱根元宮の由緒」によると駒ヶ岳からの神山信仰はおよそ二千有余年の昔から行われていたとある。だとすると神山が最後に噴火して何百年かが経過して樹木に覆われたころから神山への山岳信仰が始まったものと考えられる。

箱根駒ヶ岳から北方を見ると間近に箱根連山の最高峰「神山」(標高1438m)が望める。箱根山で一番高い神山は古来から神様が降臨される神聖な山として崇められてきた。今の箱根神社が建立されたのは奈良時代中期といわれている。それ以前は神山が崇拝の対象であった。この神山への信仰こそが箱根神社の始まりなのである。

今から2400年ほど前に聖占上人が箱根山の駒ケ岳から、最高峰の神山を神体としてお祀りされた。これが駒ケ岳における箱根神社の起源とされる。それ以来、神山は関東における山岳信仰の一大霊場となった。奈良朝の初期、757年(天平宝字元年)に万巻上人が現在の地に里宮を建て箱根三所権現と称えた。

平安朝初期に箱根路(湯坂路)が開通すると当時の旅人は箱根神社に参拝し道中安全を祈願した。鎌倉期には源頼朝から深い信仰を受け二所詣(箱根神社と伊豆山神社)の習わしを生んだ。また執権北条氏や戦国武将の徳川家康等の武家からも信仰される神社として栄えた。江戸期には東海道の道中の無事を祈願する人で溢れたという。

明治初年、神仏分離により関東総鎮守箱根大権現は箱根神社と改称された。近年では荘厳な雰囲気とその名声により「関東屈指のパワースポット」として多くの参拝者が訪れている。

芦ノ湖岸の箱根神社「平和の鳥居」

芦ノ湖岸の箱根神社「平和の鳥居」

箱根神社本殿での参拝を済ませ、車道を二つ横切り湖畔の「平和の鳥居」に降りる。そこには若い男女が十数名並んで順番を待っている。どうやら「平和の鳥居」で撮影する順番を待っているらしい。ここもほとんどが中国人のようだ。折しも鳥居の下の通路の先端で若い女性がポーズを作って撮影してもらっていた。湖畔には細い遊歩道があり先ほどの船着き場まで歩いた。

遊覧船乗場から元箱根の信号を渡り右折する。直ぐに次を左折すると興福院というお寺の参道を入っていくようになる。突き当たったところの左手は墓地で「箱根旧街道」の標識がある。この小道を進んで行く。途中で木で作られた大きな階段を渡る。昔の「ケンベル」や「バーニー」の外国人の案内板や「権現坂」の表示板も出てくる。

箱根旧街道の石畳

箱根旧街道の石畳

石畳の旧街道を歩いていくとやがて「お玉ヶ池・精進池」の標識が出てくるので左折する(直進すると旧街道を箱根湯本へ至る)。右側は先ほどの興福院のようで少し入ってみると「お玉観音の物語」という案内板があった。ここを出て更に進むと左手には変電所、右手にサンショウバラの木々(花は終わっていた)を見ながら進む。車道が出てくるのでここを渡る。カーブになっており見通しが悪いので注意を要する。渡ったところに「お玉ヶ池・精進池」の標識がある。先に進むと公園のようなところが出てくる。ここにも標識があり「お玉ヶ池・精進池」方向へ右折する。

お玉が池への樹林の道

お玉ヶ池への樹林の道

公園のような芝生を歩いていくと下り坂となり緑濃い樹林帯の中を歩くようになる。更に下るとお玉ヶ池が見えてくる。池のほとりに下り木の桟橋を渡る。突然水辺で「バシャ、バシャ」と大きな音がして水辺の草むらの2個所で何かが泳いで逃げて行った。姿が見えなかったが鯉か何かの魚のようだった。一昨日大雨があったので池の水が満々としている。草むらの浅い水辺で日差しで温まった水に浸かっていたのだろう(魚の温泉だね!)。そのまま進むと国道1号線の脇に出た。そばには丸い大きな石で「お玉ヶ池」と刻んだ碑と案内板があった。

お玉ヶ池の伝説

江戸幕府の参勤交代の制度では諸大名は一年おきに江戸と国許との行き来を義務付けられた。大名が江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならなかった。
幕府は人質として江戸に住まわせていた大名の奥方が国元に逃げ帰ることによって、幕府に対する謀反が起こらないようにすること、また鉄砲や武器が江戸へ持ち込まれないようにすること、に厳しい監視の目を光らせていた。これを「入鉄砲と出女」と言い、関所の最も大事な役目とされた。「出女」の取り調べは庶民の女性に対しても行われ、女性の旅自体を制限していた。

江戸時代の1702年(元禄15年)、お玉という十代の少女が江戸の奉公先から伊豆国大瀬村(静岡県賀茂郡南伊豆町)の実家に逃げ帰ろうと旅に出ました。お玉は伊豆の実家が恋しくなり、矢も楯もたまらずに帰ろうと思い、密かに奉公先の家を抜け出すのです。だが関所手形を持たずに旅に出たため箱根の関所を通ることができません。そこでお玉は関所を通らずに周囲の山に張り廻らされた柵を乗り越えようとしました。ところが少女が簡単に越えられる柵ではありません。柵に絡まり越えられずにいたところを、番人に見付かり捕らえられたのです。関所破りは江戸時代の刑罰の中では最も重い罪でした。お玉もその例にもれず死罪を免れることはできません。2カ月間ほど牢屋に入れられた後に獄門(さらし首)で処刑されたのです。そして、お玉の首を「なずなが池」で洗ったので、その池が「お玉ヶ池」と呼ばれるようになったのです。

お玉が池から見るハト型の稜線と青空

お玉が池から見るハート型の稜線と青空

国道1号線をお玉ヶ池沿いに100mほど歩くと左に下る踏み跡が出てくる(標識はなかった)。ここを下るとお玉ヶ池の縁に降りる。池の水は満々としていて水が少ない時は池の縁を回れるようだ。更に数百メートル進むと分岐が出てくる。ここは右手の精進池方向に直進する。ここからは樹林帯を標高差100mほどを30分かけての登りとなる。左手に大芝の住宅地が見えてくるとやがて樹林帯が切れて国道1号線にでる。注意して国道を横断したところが「石仏群と歴史館」である。

歴史館の窓越しから見た精進池

歴史館の窓越しから見た精進池

館内には集められた石仏などの遺跡と休憩室とトイレが設置されている。休憩室にはベンチが二つ置かれており真正面のガラス越しに精進池が眺められる。コンセントもあり携帯電話の充電もできるようだ。ここでカップヌードルにお湯を入れて二人で分けてスープ代わりにする。連れはおにぎりで私はサンドイッチだ。こうして精進池を眺めて時を過ごしていると登山姿の年配の女性がやってきた。「どこから登ってきたんですか?」と聞くと箱根湯本から湯坂路を歩いてきたという。尾根道には木陰もあって良かったそうだ。トイレは女性用は閉鎖されていたが男子トイレと多目的トイレ(女子トイレ兼用)は使用できた。挨拶して女性と別れる。

石仏群の成り立ち

精進池周辺の石仏や石塔は、鎌倉時代後期の一時期に集中して造られたことが大きな特色です。そしてそのほとんどに地蔵菩薩が刻まれるなど造立の背景には地蔵信仰との深い関わりがうかがえます。なぜ、この辺り一帯がこのような地蔵信仰の霊地となったのかというと、当時ここは箱根越えの道として使われた「湯坂道」の最高地点に近く、歌人・飛鳥井雅有がこの地を通過する時に「この地に地獄がある」と記したように、険しい地形や荒涼とした風景などから「地獄」とみなされ、恐れられていたようです。そのため、「地獄に落ちた人々を救ってくれるのは地蔵菩薩」という地蔵信仰が全国へ広がる中で、「地獄」と恐れられたこの地もまた、旅人をなぐさめるため、地蔵信仰の霊地となっていったと考えられます。それぞれの石仏や石塔をご覧いただくと、ところどころに、これらの造立にたずさわった人々や、由来などが刻まれています。

こうした中で注目されるのは、「多田満仲の墓」と呼ばれる宝篋印塔の銘文で、造立の発願者のほかに、石工の代表として大和国の「大蔵安氏」、導師として大和国西大寺の僧侶叡尊の弟子で、鎌倉極楽寺の住職であった「良観(=忍性)」の名が見られることです。忍性は僧侶として活躍する傍ら、慈善事業として数々の土木や建築事業を行っており、こうした職人集団と深くつながっていたことがうかがえます。このような大規模な石仏や石塔の造立にも、多くの石工たちが動員されたと考えられることから、これらの造立に、忍性が深く関わっていたとも考えられます。(出典 箱根町:箱根の石仏群について

精進池(精進ヶ池)やお玉ヶ池が箱根火山の中でいつ頃できたのだろうか?現在の芦ノ湖が出来たのがおよそ3100年前とされるから、その頃に形成されたのかもしれない。今の精進池やお玉ヶ池は静かな湖面で周辺は樹木の緑で覆われている。しかし鎌倉時代は今では想像ができないほど、あちこちで火山ガスの噴気があがり荒涼とした場所であったようだ。また精進池は硫黄泉の流入で池の水は褐色をおびた色になっている。そのため魚も生息できず精進池と名付けられたようだ。
十六夜日記(いざよいにっき)を記した鎌倉時代の女流歌人・阿仏尼は1279年(弘安2年)12月3日(旧暦10月28日)に箱根越えをしている。その頃はこの元箱根石仏群が造られ始める14年ほど前で、湯坂路の険しさが記されているのみである。また阿仏尼とも親交があった公卿で歌人の飛鳥井雅有の紀行文「春の深山路」には1280年(弘安3年)の箱根越えの印象が次の様に記されている。「此山には地獄とかやもありて死人常に人に行きあいて故郷へ言付けなどする由 数多記せり。如何なる事にか いと不思議なり。」まさに今とは全く違った地獄を思わせるような風景がここにあったわけである。

箱根石仏群は上二子山と駒ヶ岳の鞍部に位置している。ここには上二子山または駒ヶ岳の溶岩で構成される崖をそのまま彫りぬいた磨崖仏と、溶岩を切り出して造った宝篋印塔がある。
鎌倉時代には、この付近は京と鎌倉を結ぶ重要な交通路(鎌倉古道:現在の国道1号)であった。その当時ここは火山活動の残る荒れた地形で「地獄道」と呼ばれ旅人に恐れられていた。そのため石仏・石塔群を造って旅人の安全を祈願したのである。地蔵菩薩は六道を救う仏として信仰されており、そうした地蔵信仰に基づく石仏や石塔が数多く造られた。
これら石仏群は鎌倉時代後期の1293年(永仁元年)から1311年(応長元年)の間に造られたもので、当時の箱根峠沿いの街道筋に設置された。ところが国道1号線の整備によって広い車道が築造され、あたかも石仏群が分割されたような状況となったのである。

六道地蔵の覆屋

六道地蔵を風雨から守る覆屋

六道地蔵

精進池から国道1号を挟んで反対側(東側)にある磨崖仏。安山岩製、像高3.2メートルの地蔵菩薩坐像で、覆屋(地蔵堂)で保護されている。像に向かって左の岩面に正安元年(1299年)の刻銘がある。像は丸彫りに近く彫り出され、左手は膝前で宝珠を捧持する。

岩に彫られた六道地蔵

岩に彫られた六道地蔵

仏教には輪廻転生の思想があり、全ての命は六つの世界(六道)に転生する。すなわち天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道、合わせて六道(りくどう)と言う。この六道地蔵は、六道全ての人々を救うとされる。

宝篋印塔

大きな宝篋印塔

宝篋印塔(多田満仲の墓)

精進池側にある多田満仲の墓塔と伝承される石造宝篋印塔。基壇には格狭間内に永仁4年(1296年)の銘と正安2年(1300年)の追銘がある。永仁4年の銘には、大和国の大工(石工)である大蔵安氏が造立に携わったこと、鎌倉極楽寺の開山で真言律宗の僧である良観(忍性)が供養導師を務めたことが記されている。塔身には4面のうち3面に胎蔵曼荼羅の四仏の種子(梵字)を陰刻し、残り1面には蓮華座上に法界定印を結ぶ如来坐像を半肉彫で表す。

多田満仲(源満仲 913?~997)は平安時代中期の武将。清和源氏発展の礎をつくったことで知られる。酒天童子退治で有名な源頼光の父。多田 満仲(ただのみつなか、ただのまんじゅう)とも呼ばれる。この石塔は近世以降多田満仲の墓と呼ばれるようになったようだが、その由来は不明である。

磨崖仏

岩に彫られた磨崖仏

磨崖仏群(二十五菩薩像)

宝篋印塔(伝多田満仲墓)からさらに芦の湯方面に進んだところにある、全部で26体の磨崖仏群。国道1号の西側にある安山岩の岩塊の東・南・西面の各所に龕(がん:仏像を納めるため,岩壁を掘ったくぼみ)をうがって23体が刻まれるほか、国道を挟んで東側の岩にも3体が刻まれている。この二十五菩薩像は大部分が地蔵菩薩像で構成されている。群像中には阿弥陀如来立像1体、供養菩薩立像1体を含むが、他の24体はすべて地蔵菩薩立像である。4か所に銘があり、永仁元年(1293年)および永仁3年(1295年)の年紀がある。像高は西側の岩塊の西面にある阿弥陀如来立像がもっとも高く、約98cm、最小の像は約21cmである。

磨崖仏

磨崖仏の一つをクローズアップ(上の写真で一番右)

曽我兄弟と虎御前(右)の宝篋印塔

曽我兄弟と虎御前(右)の宝篋印塔

曽我兄弟墓(五輪塔)

磨崖仏・二十五菩薩像からさらに芦の湯方面に進んだところに立つ3基の石造五輪塔で、左側の2基は曽我兄弟墓、右側に立つ1基は虎御前の墓と俗称されている。通称曽我兄弟の墓は、水輪に地蔵菩薩像を半肉彫りする。通称虎御前の墓には永仁3年(1295年)の銘がある。

曽我兄弟は誤って父を殺した仇(祖父の甥)への仇討ち(敵討ち)で知られている。仇討ちに至る経緯は複雑で判りにくく、一概にどちらがいいとも悪いとも言えない。時は鎌倉幕府の建久4年(1,193年)5月。場所は源頼朝が巻狩(大勢で鹿や猪を追込む猟)をしていた富士山の裾野である。これに参加していた仇が夜寝ているところを起こして討ち果たした。しかし兄はその場で討たれ、弟は捕らえられその後処刑された。曽我兄弟は仇討ちのために生まれ、そして死んだような一生だった。当時はそれが仇討ちの見本として、面白おかしく語り継がれたのだ。

虎御前は鎌倉時代初期の遊女。曾我兄弟の兄「曽我十郎祐成」の愛人。兄弟の死後に箱根で出家し廻国に出て兄弟の里で一周忌を営み遺骨を信州善光寺に納めたという。

国道1号最高地点 標高874m

国道1号最高地点 標高874m

曽我兄弟の墓のところで石仏群は終わる。ここから芦之湯のバス停付近まで500mほどの遊歩道があるようだが、我々は道路を渡り歩道を歩いた。歩いていくと国道1号最高地点 874mの標識がでてきた。国道1号線は、東京都中央区から大阪府大阪市北区へ至る一般国道である。総延長は760.9 kmで、元箱根付近のここが最高地点の874mである(箱根峠は標高846m)。ルートは旧東海道をほぼ引継いだ現代の東海道となっている。

箱根付近で旧東海道を外れて箱根七湯を巡るルートとなった経緯は、明治時代の福沢諭吉の判断によるといわれている。福沢諭吉は外貨獲得のため外国人を集める観光資源が必要だと考えた。そして明治維新後に樹立した明治新政府に対し、湯治場として人気があった箱根温泉を巡る交通の便の良い道路にするように進言した。国道1号の内、最高地点のある箱根の部分(小田原市板橋~箱根町元箱根)を箱根国道ともいう。これに対して箱根国道の南側を走る箱根新道は(箱根湯本~箱根峠)国道1号のバイパスである。

芦之湯まで歩くと右側に歩道が出てきたので道路を横断する。どうやら先ほどの曽我兄弟の墓からの遊歩道はここに出るようだ。更に1km近く歩くと右に「湯坂路(鎌倉古道)」入口が出てきた。ここからは緩やかな尾根道である。

湯坂路の緩やかな尾根道

鎌倉古道・湯坂路の緩やかな尾根道

尾根道を1kmほど緩やかに登ると鷹巣山である。山頂周辺だけ開けているが樹林に囲まれ展望は良くない。浅間山方向に下って行くと、ここからは急な下りとなる。山頂から小涌谷分岐まで標高差80mほどを下るようになる。下りきった木の間越に金時山が聳えていた。

鷹巣山から下った小涌谷分岐から金時山を見る

鷹巣山から下った「小涌谷分岐」から金時山を見る

小涌谷分岐からは広い林道へは行かないで林道左脇の小道を行く。直ぐ左に「千条ノ滝・小涌谷」への道を見て直進する。緩やかにひと登りすると浅間山である。ここも草原で周囲は開けているが展望はない。

浅間山から標識「千条ノ滝・小涌谷」方向へ数百メートル下って行くと道は左右に分かれる。古い標識があり右は「宮ノ下 50分」、左は「千条ノ滝 20分」とある。宮ノ下へ下る予定であったが、連れに「どっちへ行く?」と聞いて相談した結果、時間の短い千条ノ滝へ下ることにした。しかし千条ノ滝への下りは木の根が露出した悪路であった。20分どころか30分以上もかかった。

千条ノ滝(チスジノタキ)

千条ノ滝(チスジノタキ)

やがて沢の音が聞こえてきた。千条ノ滝では数名の観光客が休憩していた。

左・明神ヶ岳、右・明星ヶ岳(上の方に大の字が見える)

左・明神ヶ岳、右・明星ヶ岳(上の方に大の字が見える)

小涌谷駅へ降りる直前の道路からは明神ヶ岳と、山頂付近に刻まれた「大」の字で知られる明星ヶ岳が見えた。箱根三大祭りのひとつにも数えられる「箱根大文字焼」は、箱根の夏の風物詩として、毎年多くの人々に親しまれている。篠竹約100本を束にした直径約30㎝、高さ約2.5mの松明200~300本を使用して作られる「大」の火文字の第一画は108m、第二画162m、第三画81m。この大きな「大」の字が山肌に刻まれている(その部分の樹木や竹が伐採されている)。

小涌谷駅から登山電車に乗り箱根湯本に向かう。かなり混んでおり登山電車ならではのスイッチバック(折返し運転)したりするので時間がかかる。途中の大平台駅近くではアジサイが満開で見事だった。

元箱根~箱根神社~お玉ヶ池~鷹巣山~千条ノ滝~小涌谷のコース断面図

元箱根~箱根神社~お玉ヶ池~鷹巣山~千条ノ滝~小涌谷のコース断面図

コースタイム 歩行4時間20分 距離12.1km 累積の登り677m 下り-885m

小田原駅東口(伊豆箱根バス:5番乗り場・箱根園行)8:50~9:47元箱根9:51~10:03箱根神社10:27~10:40元箱根~箱根旧街道~11:20お玉ヶ池11:27~樹林帯の登り~12:07歴史館・精進池12:37~12:43六道地蔵~石仏群~13:28湯坂路入口~13:41鷹巣山~14:20浅間山~14:26宮ノ下分岐~15:00千条ノ滝15:10~15:21小涌谷駅~箱根湯本~小田原駅

過去の記録 2018年6月4日(月)湯坂路~鷹巣山~小涌谷駅