2025年(R7)11月04日(火)4名
小田急線新松田駅9時11分着の電車を降りる。ホームからは新雪が降った富士山が見えた。改札を出て久しぶりの山仲間(女性3人)と再会する。みんなそれぞれ体の故障を抱えながらも何とか克服して今日のハイキングなのである。御殿場線松田駅に乗り換えて山北駅で降りる。山北駅は出口が北口のみである。北口にはトイレもありバス停もある。今日は平日なのにタクシーが客待ちの停車していた。駅前広場から松田駅寄りに南口への連絡橋がある。南口に出て谷峨駅方向に10分ほど歩くと森林セラピーコースの入口(終点)がある。早い時間帯のきれいな富士山を見るには森林セラピーコースの逆コースを行くのがよい。
森林セラピーコースは緩やかな登りで舗装された小道を15分ほどかけて歩く。やがて林道は行き止まり状になり折り返すように細い斜面を行くようになる。山道となり回り込むように進む。誰かが「富士山!」と言う。振り返ると新雪をのせた富士山が見えた。富士山の全景は見えないがそれでも周囲の山と相まって素晴らしい眺めだ。更に進むとウォーキングMAPの「富士山展望」の標識があった。だがここは木が邪魔をして富士山の眺めは良くなかった。
更に山道を15分ほど登ると開けた場所に出る。どうやらここが「洒水の滝分岐」のようだ。標識があり「右方向 富士山展望。左方向 洒水の滝コース」とあった。ウォーキングMAPと逆コースを来たのでこの標識に惑わされて河村城址の方に行きかけた。GPSで確認して間違いと分かり洒水の滝に向かう。
洒水の滝分岐からはやや急な下りが連続する。やがて行き止まりとなり左に舗装された集落の道を行く。突き当りを右折すると車道にでる。車道を右折して少し行くと左手に日向活性化施設の公衆トイレがある。
酒匂川にかかる高瀬橋を渡り県道726号の平山バス停前に出る。左手に「洒水の滝 入口」の大きな看板がある。道路を渡り川沿いの遊歩道を10分ほど歩くと洒水の滝が見えてくる。滝の手前に観瀑台への長い階段があり休みながら登る。階段を登りきると洒水の滝が目の前にせまる。正面に見える滝が一の滝で落差69m、その上に二の滝,三の滝があるが沢登りの達人しか見ることはできない。洒水の滝は2004年の落石事故以来危険なため立ち入りが禁止されていた。その後も18年間もの長い間立ち入り禁止が続いた。2021年より山北町と神奈川県のもとで遊歩道工事が行われた。そして地上40mの高さにある観瀑台から安全に滝を見ることが出来るようになった。観瀑台から見る洒水の滝は水量も多く圧倒される。滝の眺めを充分に楽しみもと来た道を戻る。遊歩道の中に東屋があり昼の休憩をしてから河村城址歴史公園へと向かう。
洒水の滝は三段で、一の滝は69m、二の滝は16m、三の滝は29mの落差。『新編相模国風土記稿』では、「蛇水の滝」と記されており、古来より相模国の最大の滝であった。また、鎌倉時代初期の真言宗の僧文覚が百日間も滝に打たれる荒行を積んだ地としても知られ、付近には文覚が安置したといわれる洒水の滝不動尊を安置する「常実坊(穴不動)」がある。神奈川県道726号矢倉沢山北線から滝近くまで、滝沢川沿いに遊歩道が設けられている。
2004年に立て続けに落石が発生し、ベンチや遊歩道の階段などが損傷したため立ち入り禁止となっていた。2021年2月から遊歩道の整備工事が行われた。全長118m、226段、地上40mの新たな観瀑台が整備され、2022年4月8日に一般開放を再開した。引用:洒水の滝 Wikipedia
県道を渡り酒匂川にかかる橋から川面を眺め大きな鯉が生息しているのを見た。集落の無人野菜売場でお婆さんからイノシシが出る話を聞き、銀杏とニンニクを買い、道脇に生える朱色のカラスウリを採り、標高差60mの山道を登り「洒水の滝分岐」に戻った。ここを右折して登って行くと河村城址の「馬出郭(うまだしくるわ)」の標識があった。木橋(堀切)を渡り草原の中の路を進む。
開けた草原状になり前方に展望台のようなものが見えてきた。「展望あずまや」であった。
河村城ってどんな城?
現在の山北町周辺を支配していた河村氏が、山頂付近に砦のようなものを築いたのが河村城の始まりと言われています。
南北朝時代の記録に「河村城」と書かれているので、このころには城があったと考えられます。では、今、浅間山に連なる丘陵の山頂にある河村城はいつの時代の城の姿を残しているのでしょうか。それは戦国時代、河村城が北条氏の城だった頃の姿です。
しかし、河村城には小田原城のような、水を蓄えた大きな堀や石垣、天守閣はありません。
それは、河村城が山城と呼ばれる城だからです。山城とは山のでこぼこした地形を活かして敵に攻められにくいようにつくられた城で、山頂付近には山を削ったり、土を盛ったりして、平らにした郭(くるわ)があちらこちらにあります。
山城は戦いになった時だけ使われた城で、普段、人々は山のふもとの平らな土地で生活していました。河村城では南側のふもと(現在の岸地区)が生活の場所であったと考えられ、河村館跡(かわむらやかたあと)と呼ばれる遺跡が残っています。
引用:河村城跡(かわむらじょうあと)山北町
「展望あずまや」に上ってみる。付近の山の展望はあまり良くないが相模湾と小田原市街が見える。西方向は山の陰に隠れた富士山の輪郭だけが見えた。
展望あずまやからは箱根連山が見える。中央の坊主頭状の山が入道岳(825m)でその左側が明神ヶ岳、右側が金時山である。金時山の右に矢倉岳がある。
園内の草原からは大野山が見える。路を東方向に進んでいくと公園出口となる。ここまで車で来れるとみえて近くには駐車場があり道路を挟んだその向かいには公衆トイレも設置されている。
元の「洒水の滝分岐」方向に戻る。河村城址の碑と小さな社がある広場にでる。森林セラピーコースはこの脇から下っていく。このコースは樹林に覆われて薄暗い。そしてコンクリートの滑りやすい坂道なので注意を要する。富士山を見ないならこのコースを登りに使ったほうがよい。下りきると駐車場とトイレが設置されていた。陸橋の下を通り小道を進むと鉄道公園が目の前にあった。次の電車には余裕があったので鉄道公園で蒸気機関車を見る。しばらく休憩してから山北駅に向かった。本厚木駅で途中下車し生ビールで軽く打ち上げをしてから解散となった。
山北駅の開業は1889年(明治22年)で136年以上の歴史がある。かつては東海道線の拠点駅であり山北は鉄道の町として栄えた。現在の東海道本線は丹那トンネル(熱海駅~函南駅間)ができるまでは国府津駅~沼津駅間の御殿場線が東海道線であった。熱海駅経由のルートは山岳地帯であることからトンネル建設が困難だったためである。しかし難工事であったが1934年(昭和9年)に総延長7,804mの丹那トンネルが完成し熱海駅~函南駅が開通した。丹那トンネルの開通後は熱海ルートが東海道本線となり、国府津駅~沼津駅間は御殿場線となって現在に至っている。元は東海道線であり複線であったが第二次世界大戦当時は既に御殿場線になっていた。そのため戦時中の資材不足のため単線化され回収したレールなどの資材は他の用途に利用された。
D5270号ごあいさつ
私は52形蒸気機関車といって、日本で一番大きく力の強かったテンダー機関車です。そしてD52形兄弟の70番目の生れです。私は昭和19年4月に生れてから山陽線や、東海道線で、働き昭和26年2月国府津機関区に配属になってからは、ほとんど御殿場線で活躍し皆様と一緒にこの山の間を何百回と走りました。私の走った全距離は862.275kmです。私は本来貨物列車用ですが、御殿場線のような山線で勾配の大きい線路では旅客列車も引いておりました。御殿場線が昭和43年8月1日全線に電車が走るようになったので私のつとめも終りになりましたので、この山北町の皆様と国鉄当局のご協力によって、この場所に記念として置いて下さるというので安心しました。これからは皆さまと一緒に昔なつかしい思い出ばなしをいたしましょう。どうか皆様、お子様方も可愛がって下さい。(現地案内板より)
コースタイム 歩行3時間30分 歩行距離8.8km 累積の登り下り±525m
御殿場線山北駅9:50➡森林セラピーコース入口10:00➡洒水の滝分岐➡洒水の滝11:30(休憩1:05)12:35➡洒水の滝分岐➡河村城址歴史公園13:40(休憩20分)➡鉄道公園14:40(休憩15分)➡山北駅15:05
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