2024年(R6)4月19日(金)2名

渋沢丘陵の西のはずれ頭高山の麓に八重桜の里がある。以前から八重桜の里のことは知っていたがなかなか時期が合わなかった。今年は八重桜の開花時期に合わせようと機会が来るのを待っていた。桜の開花時期が1週間ほど遅れ八重桜も同様に遅れた。そして天気のいいこの日に行くことにした。今回は渋沢駅南口からバスに乗り終点の「峠」バス停で降り頭高山へ登り大井町篠窪から富士見塚を経て峠へ戻る周回コースとした。「峠」へのバスは1日8本位で1~2時間に1本の割合である。もしバスが利用できない場合はタクシーで1000円程度で行ける。また歩けば30分ほど2.2㎞の距離である。

峠バス停~頭高山~富士見塚~了全山~峠のGPS軌跡

峠バス停~頭高山~富士見塚~了全山~峠のGPS軌跡

「峠」行きのバスは乗る人も少なく乗車時間は7分ほどだった。バス停の100m手前で一旦停車しここで全員降りた。ちょうど渋沢丘陵へ向かう分岐のところだった。身支度を整え緩やかな坂道を登り始める。清々しい初夏のような風と新緑の木々の風景が目に入る。「畑の展望台」前を通り頭高山方向へ歩いて行く。途中に「かりがねの松」という所がある。ここを過ぎて直ぐの左手に頭高山への入口がある。

かりがねの松を過ぎて頭高山入口から入った所の八重桜

かりがねの松を過ぎて頭高山入口から入った所の八重桜

頭高山入口を進んでいくと満開の八重桜が何本も咲いていた。

満開の八重桜

満開の八重桜

濃いピンク色の桜が一面に咲いていて「見事!」としかいうことができない。更に進んで行くと山道になりしばらく歩く。やがて簡易舗装された路に合流する。頭高山周辺はいつになくグループでの登山者などが多かった。やはり八重桜を目当てに来る人が多いのだろう。

頭高山直下の八重桜の里

頭高山直下の八重桜の里

八重桜の塩漬け(江戸時代末期から生産を始め、全国生産の約8割を生産している。五分咲き程度の八重桜の晩生種・関山を用い、毎年4月中旬頃から加工している)(Wikipedia)

八重桜の里

八重桜の里

千村の八重桜 
頭高山周辺の千村地区は、八重桜の里としても有名で、江戸時代末期から地域の祭り費用を賄うために始められたと言われています。戦後、各農家が植樹を重ね、今では千村地区一帯で2500本ほどが栽培されています。八重桜は、ソメイヨシノよりも開花が半月ほど遅く、4月中旬になると花の摘み取り風景があちらこちらで見られます。
千村の八重桜は食用として全国でも有数の生産地となっており、桜の塩漬けは、秦野駅、渋沢駅前の農協特産センターで販売しています。(秦野観光スポット情報)
※農協特産センターは閉店。JAはだの

頭高山休憩所の八重桜。公衆トイレが設置されている

頭高山休憩所の八重桜。公衆トイレが設置されている

公衆トイレの下あたりからは満開の八重桜の里がよく見えた。

頭高山山頂からは丹沢・塔ノ岳方面の展望が得られる。

頭高山山頂からは丹沢・塔ノ岳方面の展望が得られる。

頭高山への登りでは登山道が整備されていた。登山道は固めたウッドチップが敷いてあるようだ。階段や手すりも新しくなっていた。山頂に到着すると以前より木々が疎らで明るくなった。また丹沢・塔ノ岳方面の木々が伐採され展望がよくなった。東屋にベンチはなかったが多分これから設置されるのだろう。頭高山の山頂を反対方向へ下り山腹を回るようにして頭高山休憩所に戻った。

頭高山(ずっこうやま) 
頭高山とは、どんな山なのでしょうか。
その名の通りどこから見ても丸い頭の形をしています。新編相模國風土記稿によれば、「秋葉山 村南に在 高三町半許 丸山 ぼっこう山とも呼り」と記されています。その高さは三百三・四メートル。山頂から西を望めば箱根の山々が連なり、山間には神山滝の瀑布があります。この水は川音川(四十八瀬川)にサラサラと音を立て流れています。東南には相模の海が、北側には丹沢山塊の山々が連なって見えます。
この山のふもとには、かつて東海道の脇街道だった矢倉沢往還があり、富士山や大山参詣で多くの旅人で賑わっていたとのことです。この地には、その昔、京より鎌倉に向かう姫の悲しい伝説「かりがねの松」がありました。その社の名は「雁音神社」といいます。南側には小田原道があります。道の端には弘法大師が御出になったと言い伝えられている。「弘法の硯水(すずりみず)」があり、コンコンと清水が湧き出ていたのです。頭高山は村人や多くの旅人にとって とてもよい思い出のある所です。ここになお、美しさを増し 訪れる多くの人たちの心を癒し、安らぎを与えてくれることでしょう。 平成二十年四月 秦野市観光課 

畑の展望台より丹沢表尾根、塔ノ岳(中央)と三ノ塔(右)

畑の展望台より丹沢表尾根、塔ノ岳(中央)と三ノ塔(右)

頭高山からの帰りは行きと違う道を歩き「かりがねの松」を経て「畑の展望台」へ戻った。こちらのルートの方が起伏が大きかった。ちょうど時間もいいのでお昼の休憩とした。「畑の展望台」からはやや霞んでいるが大山や丹沢表尾根の山々、西丹沢に高松山などが見えた。

篠窪へ向かう途中の田園風景

篠窪へ向かう途中の田園風景

「畑の展望台」からは次の分岐を左折し篠窪方面へ向かう。

ウワズミザクラ(上溝桜)

ウワズミザクラ(上溝桜)

高い樹木に白い房状の花がびっしり付いている。どうやらウワミズザクラのようだ。

ウワミズザクラ(上溝桜・上不見桜)は、バラ科ウワミズザクラ属の落葉高木。別名ハハカ、コンゴウザクラ、アンニンゴ、ウワミゾ。サクラの仲間であるが、サクラらしからぬ白い小さな花が房状にたくさんつくのが特徴。よく似たイヌザクラとは、花序枝に葉がつく事などで区別できる。(Wikipediaより)

「弘法のすずり水」には水が全くなかった。車道のショートカットと思われる農道に入ると、土手脇には青いホタルカズラが散りばめたように咲いていた。連れが突然悲鳴を上げたのでびっくりする。何と緑色っぽいアオダイショウが草むらにいた。太さ3~4cmほどでかなり大きかった。アオダイショウ(青大将)は本州最大の蛇でネズミが主な餌で木にも登るらしい。

篠窪の火の見やぐら(中央)、小さな屋根の下に半鐘が付いている

篠窪の火の見やぐら(中央)、小さな屋根の下に半鐘が付いている

車道に出て右手方向に行くと道はカーブを描いて篠窪の集落に入っていく。白い星形のオオアマナが一面に咲いていた。地福寺あたりで今では珍しい火の見やぐらが見えた。

地福寺

地福寺

地福寺前を通る。

地福寺
宝珠山地福寺は臨済宗建長寺派の寺院です。開山は貞和3年(1347年)中和等睦で、開基は二階堂政貞です。二階堂氏や地福寺について書かれた「新編相模風土記稿」によれば「二階堂氏の祖は隠岐守行村と云い、建保元(1213年)和田義盛謀反せし時、これを討って功労ある故に大井の庄をあてがわれた。この頃より二階堂氏伝領して政貞に至り、その後篠窪を屋号とする」とあります。
建保元年といえば源頼朝の没後20年、鎌倉幕府の勢力が源氏から北条氏へと移り変わる時代です。大井の庄を給与された行村は鎌倉幕府草創の時から源頼朝の側近のひとりとして幕府に参画した二階堂山城守行政の二男といわれています。その後、大井の庄の領地の大部分は霜月騒動(1285年)で幕府に没収されますが、篠窪地区は二階堂氏が伝領し、政貞に引き継がれました。子孫は篠窪を姓として小田原北条氏に仕えたとのことです。地福寺は豊かな自然の中で長い間、篠窪を見つめてきた二階堂家ゆかりの寺なのです。(大井町HPより)

矢倉沢往還跡の標識

矢倉沢往還跡の標識

「矢倉沢往還跡」の古い標識が立てられていた。
矢倉沢往還は江戸時代初期に整備された街道であり東海道の脇街道として物資の輸送や信仰の道として発達した 。江戸城の赤坂御門(赤坂見附)を起点とし、現在の国道246号線はほぼこの矢倉沢往還に沿って造られている。江戸時代には庶民が伊勢原の大山に登ってお参りする大山詣(おおやままいり)が流行した。また、富士講の信仰により富士山へ登る人が多くなり、庶民から富士道 、大山道と呼ばれ利用された。新編相模国風土記稿(天保12年:1841年成立)によると、大井町を通る矢倉沢往還は四十八瀬川(川音川)の増水時や氾濫した時の脇往還(脇道、補助道)として整備されていた。この道は秦野市渋沢の「峠」地区を抜け大井町篠窪を経て松田町神山で本道と合わさった。また、途中の富士見塚( 篠窪峠)には分岐があり小田原方面に向う小田原道としても利用された。

新編相模国風土記稿 矢倉澤道
一は矢倉澤道なり、大住郡千村より四十八瀨を越え、郡中松田惣領に達し、四十八瀨水溢の時は、大住郡澁澤村より本郡篠窪村に入、神山村にて本道に合す、此道を富士往來とも云、十文字渡を越え、和田河原村に至て、甲州道に合す、行程一里三十町許、幅九尺より一丈に至る(「地誌のはざまに」より)

大井地名由来
この辺り一帯は鎌倉時代から「大井の庄」と呼ばれ『吾妻鏡』や『新編相模風土記稿』にもそのことが記されています。昭和31年の町制施行に際し、歴史的に親しみのある呼び名「大井の庄」にちなみ「大井町」と名付けられました。
二階堂屋敷跡(町指定重要文化財)
篠窪の地福寺から南側に広がる台地の一角に、現在は民家になっていて当時の面影を残すものはなにもありませんが、ここにお城あったとか、とりでの跡だとか、前方は堀であったとか、屋敷跡にはみかげ石で造ったたらいが埋まっているとか、さまざまなことが地元の人々に言い伝えられています。二階堂出羽守政貞がこの地に来て屋敷を構えたのは明徳の頃(1390~1394年)と言われています。屋敷南西の低地から発掘された五輪塔は、二階堂一族の墓地と考えられ、現在地福寺に移されています。(大井町HPより)

椎の木森のシイの木(奥まったところにある)

椎の木森のシイの木(奥まったところにある)

次の三嶋神社へはスロープ状の道を入る。境内の脇に「椎ノ木杜 巨木巡り 順路」とあったので森へ入ってみる。順路は目印の棒が立てられていた。足場の悪い草むらの踏み跡を3分ほど登る。傾いた椎の巨木が生えていた。木の根元には「風雪ニ耐エテキタ椎ノ巨魁」と書かれた板があった。

椎の木森と三嶋神社
篠窪部落の西方に位置し、民家に向って、東面した、約六十アールの社林がある。
この社林にある椎の木は自然林で樹齢八百年以上を経た大木である。
往古は矢倉沢往還といって相模の国府に通ずる重要な道路があり大山道、富士道、飯泉道に通じていた。
指定 昭和四十七年十月三日 大井町教育委員会

三嶋神社の急な階段(写真の見た目以上に急です)

三嶋神社の急な階段(写真の見た目以上に急です)

境内に戻り階段を下りる。手すりもなく正に転げ落ちそうな急な階段だった。

椎の木森 
(町指定重要文化財)昭和47.10.3指定
三嶋杜(篠窪)の森は、椎の木、杉、欅などがありますが、俗に椎の木森といわれるように、何百年も経た椎の木の大木が26本繁茂しています。県下でも稀に見る自然林で、かながわの美林50選、その中の正面左側の椎はかながわの名木100選に選ばれています。(大井町HPより)

富士見塚からの富士山

富士見塚からの富士山

三嶋神社からは標識に従い5分ほど歩くと富士見塚があった。富士見塚からは霞んだ富士山が見えた。富士見塚近くには公衆トイレが設置され何台かの駐車スペースもある。

富士見塚の由来
往古の東路は足柄山をこえて、餘綾の北端を経て秦野善波峠を過ぎ相模川・玉川を渡り江戸に通じていた。
この街道を矢倉沢往還と言った。
富士見塚はこの矢倉沢往還の一里塚であったと思われる。
篠窪字榎の木の側にある。この地は海抜250m程の丘陵である。
源頼朝が冶承4年(1180)に20年間の長い流人の生活から伊豆に旗をあげて、平家を滅ぼし、鎌倉に武家政治の基礎をきづいた。
頼朝は常に武士の士気をさかんにするために、富士の巻狩を催した。
そのころ頼朝は、この矢倉沢街道の榎の木に馬をとどめて、
富士のすばらしい眺めを鑑賞したという。
将軍頼朝の心境はいかばかりであったろうか。
その風流の跡をしのんで今にいたるまで富士見塚と言い伝えられている。
大井町HPより

富士見塚休憩所からの箱根連山(中央のなだらかな山が明神ヶ岳)

富士見塚休憩所からの箱根連山(中央のなだらかな山が明神ヶ岳)

直ぐ近くに富士見塚休憩所がありいくつかのテーブルベンチが置かれている。ここからは箱根連山も見えた。

富士見塚休憩所

富士見塚休憩所

篠窪峠(富士見塚)
篠窪峠(しのくぼとうげ)は、神奈川県足柄上郡大井町篠窪にある海抜250mの峠。峠道は、江戸時代には街道であった矢倉沢往還の一区間であった。
大井町から直接秦野市に抜けることのできる数少ない峠である。現在は神奈川県道708号秦野大井線が通じている。
現在この富士見塚には、「富志ち神」と刻まれた石碑が残されている。この石碑は明治5年(1872年)に住民の手によって再建・寄進されたものである。
篠窪の集落付近には、「神奈川の古道五〇選 矢倉沢往還の篠窪付近」と書かれた標柱が建てられており、峠道がかつての街道であったことを偲ばせている。(Wikipedia)

了全山の入り口にある碑

了全山の入り口にある碑

三嶋神社手前まで戻り県道708号を左折する。(ここは道路を渡らず手前の歩道を歩く。歩道は片側にしかないので注意!)500mほど歩くと車道の向こう側に「了全塚 入口」の石の碑が見える。(車道の横断には注意!)そして農道のスロープを登る。

了全山の登りはじめると篠窪や丹沢が見える(上方、左が鍋割山、右が大山)

了全山の登りはじめると篠窪や丹沢が見える(上方、左が鍋割山、右が大山)

直ぐに麓の集落や丹沢の山並みが見えてくる。了全塚は了全山ともいい篠窪山ともいわれる。近年整備されたと見え要所に石の標識がある。山頂まで7~8分で行ける。途中地元の農家の方が軽トラックの脇で休んでいた。「こんにちは」と挨拶する。「暑いね」と笑顔が返ってきた。

八重桜咲く了全山の山頂

八重桜咲く了全山の山頂

了全山山頂は明るいが周囲は広葉樹木に囲まれ展望はない。「了全塚」は鎌倉時代に大井町篠窪を治めた二階堂出羽守政貞公の塚(墓地)である。山頂には「了全塚由来」と「祠」と「碑」が置かれている。

了全山山頂の、了全塚由来(左)、祠(中央)、碑(右)

了全山山頂の、了全塚由来(左)、祠(中央)、碑(右)

了全塚由来
塚は二階堂出羽守政貞公の墓地
二階堂氏は相州鎌倉二階堂の出身 建暦三(一二一三)年 和田合戦の功で鎌倉幕府から大井荘を授かり篠窪の地頭となった 一族は鎌倉室町幕府 小田原北条氏 大久保氏に仕え 代々篠窪地方を統治した 地頭六代目の政貞公は 篠窪三嶋社を建立 臨済宗地福寺も開基 応永元(一三九四)年没
 法号は了全院殿青林茂公大禅定門
篠窪字入方に館跡が残る 末裔には幕末から明治にかけ天下無双と言われた槍術家で徳川幕府重臣高橋泥舟がおり 義弟に剣豪山岡鉄舟がいる 二人は動乱の明治維新に際し 江戸無血開城の偉業を果たし称えられている 政貞公の願いで塚は 郷里鎌倉が遠望できる館南東のここ前山(海抜二七六米)頂上に築かれ 五輪塔と卵塔が立つ 塚からは富士山 箱根 丹沢連峰 相模湾が一望できる 塚名は法号に由る

県道708号秦野大井線の篠窪大橋と山里の風景

県道708号秦野大井線の篠窪大橋と山里の風景

了全塚入口に戻り県道を横断しガードレールのある歩道を歩いて峠バス停に向かう。
了全塚入口から直ぐに篠窪大橋を渡るようになる。篠窪大橋は全長900mで地上からの高さは40mほどある。2018年3月10日に開通した。

神奈川県道708号秦野大井線
(篠窪地区)篠窪とは大井町に入ってすぐの集落である。大井町に入ってから篠窪の集落までに狭隘区間が存在する。そのため狭隘区間と集落をバイパスし篠窪隧道手前で合流するバイパスが現在建設されている。篠窪隧道はかつては1車線しかない離合不可能なトンネルであったが、一年間ほどの通行止めを経て2車線で歩道が片側にある通行しやすいトンネルに拡幅されている。
(峠地内)まず、峠とは渋沢の中の地区名である。峠隧道を抜けた先にある。従来集落の中を県道が通っており、集落を過ぎたところでは、極めてすれ違い困難な区間が存在していた。そのため狭隘な区間も合わせて集落を通らないようにバイパスが建設された。なお旧道も県道として存続している。(Wikipedia)

篠窪大橋から篠窪の集落を見る。上方左は椎の木森、中央の山は松田山 568m

篠窪大橋から篠窪の集落を見る。上方左は椎の木森、中央の山は松田山 568m

篠窪大橋の上から下をのぞくと眼が眩みそうだ。橋の下には小さな川が流れておりハイキングコースになっている。10年前の3月17日にこの橋の建設中に下を歩いたのだった(富士見塚~曾我丘陵)。この橋の建設工事は巨大な建造物で一体何が出来るのかと思い眺めていた。
そして10年後にこの橋の上を歩こうとは思いもよらなかった。
この橋の上からの眺めは実に素晴らしい。篠窪の集落にはピンク色の八重桜が咲き周辺には新緑の丘陵が見える。ただただ、この景色を眺めて圧倒され感心するばかりだった

峠(とうげ)バス停留場周辺

峠(とうげ)バス停留場周辺

篠窪大橋を渡り20分ほど歩く。峠集落への分岐があり横断歩道のある車道を渡る。道なりに歩くとT字路状に突き当たる。右へ行くと10分ほどで鉱山跡があるのだが連れの賛成がなく行くのはやめた。左に曲がり峠バス停に向かう。500mほど歩くとバス停があった。バス停の周辺は広くなっていて簡易トイレもあった。
バスの発車まで30分ほど時間があるので峠湧水がどこにあるのか探してみたが分からなかった。(後で調べたところバス停の道路の向こうのフェンス《写真右端⦆内側にある。湧水の表示はない。)
バスは定刻に発車して途中そこそこの乗客があり渋沢駅に到着した。

峠バス停~頭高山~富士見塚~了全山~峠のコース断面図

峠バス停~頭高山~富士見塚~了全山~峠のコース断面図

コースタイム  歩行距離10.5km 歩行3時間20分(別途休憩1時間50分)累積の登り下り±580m
小田急線渋沢駅南口(バス)9:08発~9:15峠バス停➡10:25頭高山➡11:26畑の展望台(休憩)➡篠窪➡12:30三嶋神社➡13:00富士見塚(休憩)➡13:53了全山➡14:07篠窪大橋➡14:30峠バス停(バス)15:00発~渋沢駅

 

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