2020年(R2)9月29日(火)2名

渋沢~甘柿橋~四十八瀬川~大倉~水無川~桜土手古墳公園~渋沢のGPS軌跡

渋沢駅北口のペデストリアンデッキ

小田急線渋沢駅北口へ出ると直ぐにペデストリアンデッキがある。ここから晴れていれば左方向に富士山がみえるのだが、今日は曇り空で見ることができなかった。ペデストリアンデッキの向こう側に渡り、駅前道路を左(西)方向へと歩く。

突き当りを右折する

途中でクランク状(真っ直ぐでない所)のところが2か所あるので注意が必要である。道なりに15分ほど歩くとやや広い道路に突き当たるので右折する。

国道246号線 沼代交差点

突き当りを右折してから3分ほど歩くと国道246号沼代交差点に出るのでここを左折する。
ここまでくる方法としては渋沢駅北口を出てペデストリアンデッキを渡り北へ延びる道路を進む。国道246号「渋沢駅入口」を左折して1㎞程歩くとこの「沼代」交差点にでる。こちらのほうが分かりやすいかもしれない。

左の坂を上って歩道橋を渡る

100mほど進んだところの左側の急坂を上り歩道橋で246号を渡る。住宅街に入らず左の小径を行くと御嶽神社の鳥居が出てくる。
御嶽神社(神奈川県秦野市堀西653)は国道246号線、沼代交差点のすぐ近くにある神社である。お堂を思わせる様な社殿の御嶽神社には、貞観9年(867)・正平20年(1365)などの創建伝承がある。創建から江戸時代を通じて「蔵王宮」として呼ばれていた。「御嶽神社」となったのは明治6年の事である。この地域の堀西・堀山下・堀川・沼代はかつて堀之郷という一地域であった。「新編相模国風土記稿」には、「堀四ヶ村の鎮守なり。御神体は木造。」との記述がある。祭神は 日本武尊で境内にはスギ・ヒノキ・ケヤキ・スダジイ・ムクノキなどの高木が茂っている。

御嶽神社の鳥居、奥に本殿が見える

御嶽神社御由緒
創建年代は不詳であるが、大昔からの言い伝えによれば貞観九年(867)に蔵王権現として創建されたと言う説や、さらに室町時代当初の正平二十年(1365)頃創建されたと言う説もある。又、地頭須田家より永正年間(1504~1520)不闕(欠けることなく)「御供米」として玄米一斗宛上献があり、明治六年村社に列すと言う文書もある。又、江戸時代の寛文十一年(1671)宗旨門別帳が作成され、寺請檀家制度が完成し、神仏混淆思想が盛んになり当神社も月光山桂林時の持ち分となり「蔵王宮」と呼称される様になり、明治元年神仏分離令が出されて、神道の国教化が進み廃仏毀釈の運動が高まり、仏教を排斥し、寺や仏像を壊す行動が高まり、明治六年より御嶽神社と改称されたようです。新編相模風土記・中郡勢誌等の記述によると蔵王宮(御嶽神社)は堀四ヶ村の鎮守なり、ご神体は木像、例祭は八月八日となっている。然し、煙草耕作等の関係で例大祭は毎年四月四日と固定されてきたが、近年児童数の激減の為御神輿の渡御が休日で無いと困難になり四月四日以降の土曜日と変更された。
堀四ヶ村とは、堀山下村・堀川村・堀斎藤村・堀沼城(沼代)村のことで、尚堀斎藤村と堀沼城村が明治二十年頃から堀西村となった。従って、例大祭には、堀山下の堀之郷正八幡宮・堀川の八坂神社・森戸の神明神社・黒木の須賀神社・波多川の天津神社・学校前の浅間神社・新生町八幡神社・の代表が昔の堀四ヶ村当時の氏子として現在も参列されている。その他に、千村の白山神社・神社境内にある聖徳神社の代表も参列される。
◎御祭神
 御嶽神社の御祭神は日本武尊で、「古事記」や「日本書紀」によれば景行天皇の皇子で天皇の命令を受けて、九州の熊襲や、東国の蝦夷を征伐して、帰国の途中伊勢の国で亡くなられた。昔から武勇の優れた神様で、又、愛情のある歌人としても崇められ多くの人から信仰されている。
※大森稲荷神社の祭神は、宇迦之御魂命で五穀豊穣の神様で元亀元年(1570年)「織田信長の頃」大森式部吉正(大森宮司の先祖)が自宅に創建されておられたが明治末年に県庁の指示によって御嶽神社の合祀された。
◎境内社
※菅原神社(天神様)の御祭神は菅原道真公で、学問の神様です。一月二十五日が祭日で、昔は、子供たちがご神札を印刷し各家庭に配布し勉強が出来るようにお願いした。
※山の神様は、昔から春に山から里に降りて田の神となり秋には再び山に戻り山の神となると信じられ、農耕の守護神として信仰されてきた。
※天社神 春秋の社日(春分、秋分に最も近い前後の戌の日)に農事を休んで地神講を開き農家の方々が農作物の豊作や収穫の感謝をお祈りした。
※聖徳神社の祭神は聖徳太子で秦野西建築組合の方が太子講を開き、毎年一月と七月の二十二日に例大祭が執行され、工事の安全祈願をされます。
平成十五年(2003年)四月之建

御嶽神社本殿の左側から下って道路に降りる。

鳥居のそばに下に降りる階段もあるが今日は御嶽神社を見てから行こう。御嶽神社本殿の左側を奥に進むとその先に下る道がある。下った道を折り返すように左折する。突き当たり道路となるので、その先を折り返すように右折して進む。最初の路地を左折すると広い道路に出る。そのまま進むと前方に四十八瀬川に架かる甘柿橋が見えてくる。

甘柿橋

この橋の手前を右折すると堤防道だ。渋沢駅から堤防道まで30~40分ほどである。今回は寄り道して甘柿橋の手前から堤防道を歩いてみた。

甘柿橋からの彼岸花が咲く堤防道

四十八瀬川(しじゅうはっせがわ)は、神奈川県秦野市を流れる酒匂川水系の河川である。丹沢・鍋割山や塔ノ岳を源流とする水の流れは新松田駅南部で酒匂川と合流して相模湾に注ぐ。 四十八瀬川はたくさんの瀬がある川ということが由来のようだ。堤防道を歩いてみると川が見えるところが何か所かある。しかし川が見えるところでは深い淵はなく瀬であった。だから何本もの川筋があるのではなく、一本の川に多くの瀬があるという意味なのだろう。堤防道スタート地点の甘柿橋から才戸橋までは1.5㎞ほどある。その※左岸(上流に向かって川の右側:東側)に堤防道があり、その脇にわずかな平地を利用した田んぼが作られている。今は黄金色に色づいた稲穂が実り収穫の時期なのだ。その堤防道や田んぼの畔道の脇を真っ赤な彼岸花が彩る。 ※登山用語で川(沢:谷)の下流に向かって右側を「右岸」、左側を「左岸」という。

スズメおどしの鷹のタコが飛んでいた

大きな鷹のタコが田んぼの上を飛んでいた。どういう仕掛けかはよく分からなかったが、農作業をする人の傍らでタコがビュンビュン飛んでいた。稲穂を食べに来る鳥(主にスズメ)を脅すためなのだろう。

 

曲がりくねって流れる四十八瀬川

堤防道沿いの田んぼに咲く彼岸花

堤防道沿いに咲く彼岸花

堤防道終点近くに咲く彼岸花、ここから先にはほとんどない

堤防道沿いに咲く彼岸花

ピンク色の橋が才戸橋、その上が工事中の新東名高速道路

堤防道から才戸橋まで行かず、その手前の小道を右折して車道に出る。車道からは才戸橋が見えその上に、工事中の新東名高速道路の高架が見える。
新東名高速道路は、神奈川県海老名市から静岡県を経由し愛知県豊田市へ至る総延長253.2 kmの高速道路である。新東名高速道路は東名高速道路より約10km山側(北側)を通過し東名とほぼ並行関係を保ち途中で数か所の連絡路を介する。これにより東名の交通量を新東名に分散させ慢性化していた東名の交通渋滞を解消することが主な目的である。1971年(昭和46年)に調査が開始され、1993年(平成5年)に長泉沼津IC~豊田東JCT間の工事が着手された。調査から既に50年以上が経過しているが、秦野IC~御殿場IC間の開通予定は2023年度(令和5年度)である。

八幡宮

堀之郷正八幡宮 (ほりのごうしょうはちまんぐう)
神奈川県秦野市堀山下988
天安2年九州宇佐より勧請す。堀四か村の鎮守。武門の信仰篤く、小田原北条氏幣帛を献上。又徳川家康、小田原攻めのおり、戦功を祈願す。又米倉丹後守は家の守護神として崇敬す。
明治維新に至り、郷社に列せられる。
堀之郷正八幡宮の説明板によると次のように記されている。

御祭神
誉田別尊(ほんだわけのみこと) (応神天皇)
息長足姫尊(おきなたらしひめのみこと) (神功皇后)
高良玉多礼命(こうらたまだれのみめい) (竹内宿祢)
由緒
天安二年(西暦858年)九州宇佐八幡宮から分霊を勧請してこの地に祀り当初は金光山正八幡宮と号し武門では立身出世・氏族繁栄・行路安全・災難消除の神様として、他に民間では安産・子育ての神様として信仰された。何れも御祭神の歴史的事蹟によるものである。
天正年間には小田原北條氏が堀田四ヶ村(堀山下村・堀西村・堀川村・沼代村)の神官として祭禮奉串の儀を行い、その後徳川の時代には社領五石の朱印状を受けている。また堀山下村の領主米倉氏からは守護神として手厚い保護を受けた。明治維新後は郷社に列せられ堀四ヶ村の鎮守として崇敬護持とされ今日に至っている。

風の吊り橋

秦野戸川公園 神奈川県立秦野戸川公園は、神奈川県西部に位置する広さ50.7haの都市公園です。公園は、表丹沢の山々と秦野盆地に囲まれ、公園の中心には、丹沢の山から湧き出る水無川(みずなしがわ)が流れています。高さ35m、長さ267mの公園のランドマーク「風の吊り橋」でつながれた水無川の両岸には、「子供の広場」「バーベキュー場」「お茶室」 「自然観察の森」「多目的グラウンド」などがあり、美しい丹沢の山並みを背景に一日中楽しめます。神奈川県立秦野戸川公園HPより

風の吊り橋は秦野戸川公園の巨大な建造物でありシンボルである。そして、いかにも風が通り抜けそうな橋の名前である。この橋は神奈川県立秦野戸川公園に設置された歩道橋であり1997年(平成9年)に完成した。公園の中心部には塔ノ岳から三ノ塔を水源とする水無川が流れている。この水無川に架けられた長さ267m、高さ35m、幅4mの長大な吊り橋なのだ。吊り橋を支える塔の高さは河原からだと50mほどの高さになる。橋桁は鋼製だが塔はコンクリート製で重厚な外観は全面石貼りで周囲の景観にマッチしている。「風の吊り橋」の名前は丹沢から吹き下ろす風の通り道となっていることに由来している。なお、水無川は秦野盆地で水流のほとんどが地下に伏流する。このため水の無い川なので「水無川」と名付けられた。水無川は下流で金目川、花水川に合流し平塚~大磯間あたりで相模湾に注ぐ。

水無川の河原からみた風の吊り橋

水無川遊歩道から下流方面を見る

秦野市内を流れる河川の多くは丹沢山塊の沢筋から発している。秦野盆地の中央部には塔ノ岳に源を発する水無川(みずなしがわ)が流れる。水無川は増水時には水が流れるが、普段は伏流水(地下を流れる)になるなどして地表を水が流れない川のことである。水無川の名が付く川は日本各地に30か所ほどあり秦野の水無川もその一つである。水無川の水量は秦野盆地に入ると、扇状地形で伏流水となるため極端に少なくなる。季節と場所によってはほとんど水が流れていない事もあるため、これが「水無川」の由来となる。そして秦野市内の河原町付近で金目川に合流すると水量が増えるようになる。また今回歩いた水無川の河川敷は整備されていて、ウォーキングや散策などにも最適である。

水無川の川辺に咲く彼岸花

桜土手古墳公園の園内

水無川遊歩道より「古墳公園前」交差点で車道に上がる。直ぐ目の前が桜土手古墳公園である。桜土手古墳群は古墳時代後期~終末期の古墳群であり、東西500メートル、南北300メートルの範囲に35基の古墳の存在が確認された。古墳発掘調査後に埋め戻されたために現在地上に見えるものは12基で、そのうち桜土手古墳公園内に6基、日産車体工場内に5基、島津製作所内に1基がある。この古墳群は7世紀後半に造られたもので、すべてが円墳で構成されており古墳群としては神奈川県内では最大規模といわれている。

桜土手古墳公園の古墳(1号墳)

横穴式石室
古墳で最も重要な、遺体を入れる場所です。入口は石を積んで塞がれますが、それを開けることによって、何度も追葬することができます。
1号墳石室の石積みは、上にいくに従って少々狭くなり、その上に天井石を8個乗せています。その上を小石や粘土でおおい、石室内に雨水が入らないようにしています。
石室からは、壺などの須恵器や勾玉などの玉類、その他の鉄製品が出土しました。

コースタイム 歩行時間4時間18分(休憩1時間別途) 距離13.3㎞ 累積の登り下り±320m
小田急線渋沢駅9:28~10:14甘柿橋~四十八瀬川堤防道~10:58才戸橋手前~八幡宮(休憩10分)~11:38大倉(休憩40分)12:18~風の吊り橋~水無川の川辺を歩く~新東名高速道路工事中につき迂回~13:37水無川遊歩道→14:07桜土手古墳公園(休憩10分)~14:46渋沢駅

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